室町幕府の成立と足利尊氏の政治

中世(日本史)

室町幕府の成立と足利尊氏の政治

室町幕府は、鎌倉幕府の滅亡後、足利尊氏によって開かれた武家政権です。室町幕府は約240年続き、日本の政治や文化に大きな影響を与えました。本記事では、室町幕府の成立と足利尊氏の政治について詳しく解説します。


簡単な解説(初心者向け)

足利尊氏(あしかがたかうじ)は、鎌倉幕府を滅ぼし、1338年に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命されて室町幕府(むろまちばくふ)を開きました。幕府の中心は京都の室町に置かれ、尊氏は天皇と協力しながら新たな武士政権を築きました。しかし、建武の新政(けんむのしんせい)に対する不満や南北朝の対立など、多くの課題にも直面しました。


詳しい解説(中級者向け)

鎌倉幕府の滅亡と建武の新政

鎌倉幕府は、元寇(げんこう)の影響や御家人(ごけにん)の不満の高まりによって弱体化し、1333年に足利尊氏らによって滅ぼされました。その後、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は建武の新政を開始し、天皇中心の政治を目指しました。しかし、これに不満を抱いた武士たちは尊氏を支持し、1336年に京都で武士政権を確立しました。

室町幕府の成立

1338年、足利尊氏は征夷大将軍に任命され、正式に室町幕府を開きました。幕府の本拠地は京都の室町に置かれ、鎌倉幕府とは異なり、将軍と天皇が協力する形での政治が進められました。

尊氏の政治と課題

足利尊氏は、新たな武士政権を確立するために、守護大名(しゅごだいみょう)の権限を強化しました。守護大名は、国内の政治・軍事を統括し、各地の武士をまとめる役割を担いました。しかし、南朝(なんちょう)勢力との対立や、幕府内での権力争いが続き、安定した統治には時間がかかりました。


深掘り解説(上級者向け)

南北朝の動乱と尊氏の対応

室町幕府成立後も、後醍醐天皇を支持する南朝勢力は京都を奪還しようと戦い続けました。この南北朝の対立は、約60年にわたって続きました。尊氏は、南朝の勢力を抑えながら、北朝(ほくちょう)の天皇を擁立し、幕府の正統性を確立しようとしました。

幕府の支配体制

室町幕府は、「半将軍体制(はんしょうぐんたいせい)」と呼ばれる政治体制を取っていました。これは、将軍が全国を直接支配するのではなく、有力な守護大名に地方の統治を任せる仕組みです。この結果、守護大名の力が強まり、やがて戦国時代の分国支配(ぶんこくしはい)へとつながる基盤が作られました。

足利尊氏の晩年と室町幕府の継承

足利尊氏の晩年は、内部対立や戦乱が続く中で迎えました。1358年に尊氏が死去した後、その息子である足利義詮(あしかがよしあきら)が第2代将軍となり、幕府の統治を引き継ぎました。さらに、その後の足利義満(あしかがよしみつ)の時代には、南北朝合一(なんぼくちょうごういつ)が実現し、室町幕府の基盤が強化されました。


要点まとめ

  • 鎌倉幕府滅亡後、建武の新政に不満を持つ武士たちが足利尊氏を支持。
  • 1338年、足利尊氏が征夷大将軍に任命され、室町幕府を開く。
  • 幕府の支配は守護大名を通じた半将軍体制により行われた。
  • 南北朝の対立が続き、幕府の安定には時間がかかった。
  • 尊氏の死後、足利義満の時代に南北朝が統一され、幕府の基盤が強化された。

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参考資料


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